私が人生を終わらせようと思った理由 No.1
目次
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introduction
- 内容は重い話が含まれています。なので、記事を読む際は自己責任でお願い致します
- 自己満足で書いているので、どうか温かい目で見て頂けると嬉しいです
self introduction
初めまして、RARO と申します。19歳のこれまでの人生を書き綴っていこうと思います。
この記事が私の中で生きている証になれば良いなと思いブログを始めてみました。
登場人物
自分:RARO
親:父 母
弟:けい
元彼:しょう
彼氏:あきら
親戚:祖父母・従兄弟家族
⚠️実際の名前ではありません⚠️
第一章:出会い
高校2年生の7月ごろ(RARO当時16歳)、気温が上がってきて夏の到来を感じる季節に私はしょうという一人の男性と出会いました。
私が趣味で、たまに絵を描いたりしてTwitterに投稿していたことがきっかけとなり、しょうとはそこで出会ったのでした。
しょうは私が投稿したイラストのツイートにコメントをしてくれた一人で、DMで話をしていくにつれ、意気投合し、関係は恋人へと発展していきます。
私と出会った当時、しょう(しょう当時20歳)は一人暮らしをしていましたが、ある日、ふと、過去の、しょうが経験してきた家庭環境を話してくれました。
その内容は、小さい頃に両親から捨てられ、おばあちゃんに育てられてたという過酷なものでした。
しょうのおばあちゃんは重度のアルコール依存症で、それに加え暴力的な部分もあったそうです。
わたしは一度も会ったことがないですが、しょうにはお兄ちゃんがいたそうで、お兄ちゃんは両親の元で育てられていて、しょうが頼れるのはおばあちゃんと親友だけだったと話してくれました。
しょうは優しい人で、過去の経験を踏まえアドバイスをしてくれながら、私の愚痴などをよく聞いてくれていました。
よく話を聞いてくれる人だったので、友達にも話していないようなことも話すようになりました。
しょうと出逢い、会話を重ねていく事で、私は徐々に自分の家族がおかしいのではないかと思い始めるようになりました。
第二章:わたしの両親
私の父は、仕事で疲れたり給料日前のお金に余裕がないときなど、精神的に疲れているとき、いつも機嫌が悪く「夜ご飯の味付けが薄い!!!」など全く関係のないことで怒りだし、ご飯をひっくり返したり、怒鳴りだしたりするような性格でした。
特別機嫌が悪い日には、仕事帰り車で事故を起こしたり、髪を引っ張られたり、暴言を言われたりしていました。
父自身も壮絶な過去が有り、育児放棄をされ小学生の時にホームレスの経験があったり、父が16歳の時にはビザだけ渡され海外に置いて帰られたり、父のお母さん(私からみた父方の祖母)は父の目の前で自殺未遂をしたりする人だったり、父の結婚前の彼女だった女性は海外で殺害され亡くなっていたりします。
そのトラウマから家族の中の誰かが体調を崩したり、泣いていたりすると、心配を通り越して極度な不安感から怒ってしまう人でした。
なので、父が怒っているときはひたすらに耐え、影で泣くことしかできませんでした。
一方母は、父親と弟に隠れて借金をしていました。
重度のギャンブル依存症で、パートを月の半分休んではパチンコに行ったりしていました。
家のお金の管理は父がしていたのですが、父には隠して仕事を休んだりしていたので、毎月の足りない分の給料を借金して埋めていました。
その借金をする際、自分のお小遣いとして少し多めに借金をしていたみたいです。
借金なので、翌月には借りた分をもちろん支払いしないといけないですが、仕事を月半分も休んでいるので、もちろん支払いができる目処はありませんでした。
そこで母が取った行動は、別の金融会社やクレジット会社から借金をして返済をするという、借金を借金で埋めることでした。
そんな行動をずっと続けていた結果、金融会社3社とクレジット会社6社に借金を抱えることになり、利息もどんどん膨らんでいき、家を一軒買えるほどの額になりました。
私がなぜ母の借金を知っていたかと言うと、借金の額が膨らみ過ぎて、父には怖くて相談できないからと、「助けて欲しい」と話を聞いていたからでした。
母の借金を知った当時私は15歳だったので、借金の事をよく分からないままとにかくお金が必要で困っているんだなと、そんな軽い認識でした。
両親とも、過保護なところがあり、私は友達と遊びに行く事すらあまりできず、自分の部屋の家具の配置などは「お前が何しているか分かるように」と言われ家具の位置の指定をされ、ドアを閉めるのも禁止でした。
時には私の部屋で親が一緒に寝たりしており、友達と電話をするにしても会話を聴かれる環境だったので電話もほとんど出来ず、スマホを見ていれば、何をしているのか逐一聞かれるような状況でした。
なので、人に相談する事もほとんどすることができませんでした。
第三章:人生が壊れはじめていた時期
母から「助けて」と言われていたので、私はまずバイトを始めてみました。
バイトを始てみたものの、父親の扶養内でバイトをしなければならなかった事と、看護の高校だったので勉強する時間も必要で、あまり稼ぎは良くありませんでした。
ただ、借金の額も大きく母も切羽詰まっていたのが現実で、私はバイトに加え援交をして母にお金を渡すようになりました。
援交は私にとって辛く苦しいものでした。
見ず知らずの大人の男性と会う度、心が壊れていくような感覚を覚えながらも、そうする以外私は何もできなかったのです。
時にはお金を払わず逃げる大人、飲み物に違法な薬を混ぜる大人、拘束して逃げられないようにしてくる大人、妊娠をさせようとしてくる大人、盗撮をしていた大人もいました。
恐怖と不安と体力の限界で、この時から私は人生を終わらせてしまいたいと思っていました。
お金が渡せなければ、母は「もう死にたい」と言い出し、父に相談しようと思っても、怒らせるのではないかという恐怖感と、あまり精神的な負担をかけさせたくないという思いから、ただひたすらに頑張ることしかできませんでした。
私はまだこの時点では、家庭がおかしいことに気づいていなかったのです。
友達にこんな話をすることはなかったし、義務教育で家庭内DVの勉強があったりしても、自分が授業の内容に当てはまると思っていなかったんです。
to be continued
私が人生を終わらせようと思った理由 No.5
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introduction
- 内容は重い話が含まれています。なので、記事を読む際は自己責任でお願い致します
- 自己満足で書いているので、どうか温かい目で見て頂けると嬉しいです
self introduction
初めまして、RARO と申します。19歳のこれまでの人生を書き綴っていこうと思います。
この記事が私の中で生きている証になれば良いなと思いブログを始めてみました。
登場人物
自分:RARO
親:父 母
弟:けい
元彼:しょう
彼氏:あきら
親戚:祖父母・従兄弟家族
⚠️実際の名前ではありません⚠️
第十三章:祖父母との生活
祖父母の家にいた間、私は辛いものでした。
毎日のように祖父から「RAROがパパに謝って家に帰るしか選択肢はないぞ。16歳でできるのはそのくらいだし、お前の居場所はそこしかない」と言われ続けていました。
祖父母宅のお隣さんは従兄弟家族(父の兄の家族)の自宅でした。
従兄弟はもちろん何も事情を知らないので、「なんでいるの?学校は?」と知られたくない事を聞かれずっとはぐらかしていました。
ある日、あまりにも毎日祖父が「何がそんなに嫌なのか」というものだから私は「この家(祖父母宅)に来た時に話したような家庭で、体にも支障が出てきている」と話をしました。
体に支障が出ていることを祖父母には伝えていなかったため、急遽母を呼び出して話をするという事になりました。
私は別室へ連れて行かれ、母と祖父母で話をしていました。
2時間ほど経った後、話が終わったのか母は私がいる部屋へ来ました。
母は一言目に「おじいちゃんが言う通りパパに謝って家に帰ろう」と話してきました。
私はそこで「どうしてあんな事になって、家出を2度もしていまだに私の言っている事をわかってくれないの!!!!」「こんなことが続いてばかりで毎日死にたい生活を送るのはもう疲れた!!」「何もわかってもらえず、私だけが耐えて家に帰れって言うのなら私はここで死ぬ!!!!」と言い放ち母親と取っ組み合いになりました。
取っ組み合いの後、このままじゃ埒が明かないと思い、母は帰宅しました。
祖母は「そこまで追い詰められているのであれば好きなだけこの家にいればいい」と言ってくれました。
その日を境に私の精神状態はさらに悪化していきました。無意識のうちに自分の体を殴り、引っ掻き、ノートにいろんなネガティブな言葉を書き綴り、教材を破いていました。
祖父母の家にはいるはずのない両親の声で私の名前を呼ぶ声が聞こえるようになり、ひたすらに耐えるしかありませんでした。
第十四章:2度目の帰宅
そんなこんなで1ヶ月が経とうとしている頃、祖母の体調が優れなくなっていました。
常に頭が痛すぎて動く事も辛いと言い寝込むようになりました。病院を受診する事を勧め、検査をさせました。
検査した結果、水頭症と言う脳に水が溜まる病気だと診断されました。
祖父はそれを見て「水頭症になったのはRAROのせいだ!!!!!」と祖母の目の前で言い、「悪いが出て行ってもらう」と言われました。
祖母はそんな光景を目の前で見たので「私が病気になったから、こんなことに、、、ごめんね」と泣いていました。
私は、私と祖父の2人の時に言えば良かったような事を、病名を診断された直後の祖母の目の前で、祖母がどう感じるかなんて事を考えず、そんな事を言い放つ祖父に恨みを覚えました。
それから祖父が母に連絡をし、「RAROを引き取ってくれ」と電話で伝えていました。
母が迎えに来てくれ、祖父母に「お世話になりました」と挨拶をしました。
祖父は「またいつでも遊びにおいで」と笑って言ってきました。
祖母は「どんなにつらいこと、苦しいことがあってもおばあちゃんだけはRAROの味方だからね」と言ってくれ、嬉しさで涙が流れそうになるのを堪えながら母に連れられ、自宅へと帰宅しました。
第十五章:親戚との縁
帰宅した時、父は「おかえり」と普通に出迎えてくれ、少し嬉しかったのを覚えています。
帰宅し、数日経った頃、私がバイトをしている途中に母から「ママもう家に帰れないかも」とラインが入り、弟のけいからも「お姉ちゃん助けて」ときていました。
急いで帰宅した時、父はまだ仕事中で自宅におらず、母とけいが私を待っていた様子でした。
母からの連絡では母は家にいない様子だったので、自宅にいることにびっくりし、とにかく事情を聞きました。
母は震えながら話をし始めました。
「祖父母と従兄弟の両親(私から見た叔父と叔母)に大金を借りている」という内容でした。
このお金は、以前、借金が父親にバレた際「もう2度と借金をしない」と約束した後に借りたお金でした。
父に約束をしていたため、家族全員がこのお金を借りているという事を全く知らなかったのです。
私は母に以前、叔父の連絡先を教えて欲しいと言われたことがあり、私は叔父の事務所で仕事をしてたことがあった為、連絡先を知っており、母に教えたことがあったのですが、その連絡先を教えた際にお金を借りていたようでした。
それだけなら普通は母が家に帰って来れなくなるという話にはならないのですが、従兄弟の父(叔父)は、いわゆる闇金などをしているような裏社の人間でした。
母は、私に連絡する前、叔父の事務所に呼び出されていたようで、叔父からは「話がしたい」とそれだけ言われて、私と父は叔父が裏社の人間だという事を知っていましたが、母はあまりよく知らなかったのか、それを鵜呑みにし事務所に行ったようでした。
事務所に到着すると叔父と叔父関係の人間が何人か集まっていた様で「今すぐお金を全額返せないのであれば、知り合いのところに売り飛ばす」と言われ、目の前で高速バスのチケットまでとられたそうで、母がなんとか「自分の親に連絡して用意してもらうから少しだけ待ってほしい」と言い、叔父の目の前で、自分の親(私から見た母方の祖母)に電話をし、叔父と祖母でも話し合いをし、祖母が電話中に貯金額全てを先に支払い、足りない分は祖母が借金をし、私の父にも返済をさせるという約束をし、家に帰って来れたようでした。
その話を聞き、私は母をただ宥めながら父が帰宅するのを待ちました。
父が帰宅後は事情を説明し、父は母方の祖母と自分の兄(私から見た叔父)に電話をしていました。
父は叔父に電話越しで「自分の嫁になんてことをしてくれたんだ!!!!」と怒りをあらわにしていました。
父自身も海外に置いて行かれた過去に、働き口がなく、海外の裏社に入り生活をしていたため、今まではトラブルを起こさない様にと気を付けていたらしく、叔父に怒鳴っている父を見るのは初めての経験でした。
私もけいも叔父に対して「私たちのママに何をしてくれているんだ」と怒り、結局親戚間でトラブルになり、縁を切る事になりました。
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私が人生を終わらせようと思った理由 No.4
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初めまして、RARO と申します。19歳のこれまでの人生を書き綴っていこうと思います。
この記事が私の中で生きている証になれば良いなと思いブログを始めてみました。
登場人物
自分:RARO
親:父 母
弟:けい
元彼:しょう
彼氏:あきら
親戚:祖父母・従兄弟家族
⚠️実際の名前ではありません⚠️
第十章:体の変化
私は、家出から帰宅後、高校から郵送されてくるテストの勉強をしながら毎日バイトをするようになりました。
家出前は高校に通いながらバイトをしていた事もあり、毎日バイトするのは苦じゃありませんでした。
ですが、仕事は苦じゃないのに体に出てくる症状はどんどん悪化していきました。
バスや電車で通勤していたのですが、公共交通機関を利用するたび、息苦しくなり、音がうるさく感じ、みんなに見られているんじゃないかと錯覚し、動悸が激しくなり、血の気が引いていくようになりました。
家にいるのは苦痛で仕事をしている間だけは考え事をしなくて済んだので仕事をする事自体は好きでした。
それでも、体に出てきた変化はしんどく、徐々に仕事に行かなくなり仕事をやめ、それでもお金は必ず親から請求されていたので足りない分はまた、援交をし、補っていたのでした。
そんなことを繰り返し、職を転々としていたのですが、このままでは永遠と今の状態が続くと自分でもわかっていたので精神科に行き治療をしようと思いました。
ですが、私の保険証は家出から帰ってきたその日に「次、家出するようなことがあったときに、身分証がないと、なにもできないだろうから」と保険証を取られていたのでした。
親に病院に行きたいと言い、どこの病院に行くのかを伝え、許可が出ないと保険証を渡してくれない状況だったので、親に相談しました。
親の反応は「精神病なんて甘えだ」「仕事がめんどくさくて行かないだけだろ」と言われ突き放されただけでした。
第十一章:2度目の家出
そんなモヤモヤを抱えながら、毎日を過ごし高校三年生の秋(当時16歳)、私が限界を感じていた頃、父が機嫌悪く帰ってきた日でした。
その日は私がたまたまバイトが終わる時間が遅くなってしまい、すぐに乗れる電車もなかったので、親に連絡はしていたものの帰宅が遅くなってしまった事に怒られました。
私の精神状態も限界だった為「仕事で遅くなったり、すぐに乗れる電車やバスがないのは私がどうにかできる事じゃない!!!」と反抗してしまったのでした。
反抗したことをきっかけに父から「お前が家出をしたせいで家庭はめちゃくちゃだ!!!」「そんなに家が嫌ならお前はなんで帰ってきたんだ!!!!」と言われ、私は家族がめちゃくちゃなのをどうにかしたくて、泣いて帰ってきて欲しいと母に言われた事をきっかけに帰宅したので、訳が分からず、頭が真っ白になりながら泣いていました。
少し私が落ち着きを取り戻し、そのあとは祖母へ「助けて、迎えにきて」と電話をしました。
しょうを頼りたかったけれど、「次、しょうとあっている事や連絡をとっていることを知ることがあったら、しょうを警察に突き出しお前を連れ戻す」と両親に言われていて、私はGPSをつけられたりしていた事もあり、祖母を頼りました。
祖母は夜中だったのにすぐに駆けつけてくれ、荷物をまとめ、車で祖父母の自宅へと向かいました。
ただ泣いているだけの私に祖母はハンカチを渡してくれ、落ち着くまで何も聞かずにいてくれました。
第十二章:謝罪と突き放し
祖父母の家に着くと、祖父も起きて待っていてくれました。
私は家に置いてもらうので事情を説明をしなければと思い、話し始めました。
この時私は、祖父母に話をするのを少し躊躇しました。祖母は優しい人でしたが優しすぎるが故に自分のことのように考えすぎてしまい精神病を悪化させてしまう恐れがありました。
祖父に関しては、父を幼い頃にホームレスにしたり、祖母を自殺へと追い込んだり、父を海外に置いてきた張本人だったのです。
躊躇しながら少しづつ話し出すのを二人は静かに聞いてくれました。
二人の反応はそれぞれ全く別のものでした。
祖父は「泊まりに来る分には構わないがRAROのパパがしていることは間違っていない。RAROがどうしてそんなに思い悩んでこんな事になっているのかが全くわからない」といっていました。
祖母は「おばあちゃんのせいだね。RAROのパパをそんなふうに育ててしまって、本当にごめんね」と涙を流しながら謝っていました。
その日から私は1ヶ月間、祖父母のもとでお世話になる事になりました。
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私が人生を終わらせようと思った理由 No.3
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- 内容は重い話が含まれています。なので、記事を読む際は自己責任でお願い致します
- 自己満足で書いているので、どうか温かい目で見て頂けると嬉しいです
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初めまして、RARO と申します。19歳のこれまでの人生を書き綴っていこうと思います。
この記事が私の中で生きている証になれば良いなと思いブログを始めてみました。
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自分:RARO
親:父 母
弟:けい
元彼:しょう
彼氏:あきら
⚠️実際の名前ではありません⚠️
第七章:母との話し合いを経て
母との話し合い当日、私は母の元へと向かいました。
少しだけ、父がもし話し合いの場にいたらどうしようと緊張していたけれど、約束通り母は1人で待っていてくれました。話し合いの場所は「公共の場で話すことではないから」と、父が仕事で家にいない時間を見計らって、実家での話し合いでした。
母は泣きながら「もうママはRAROが死んだと思って今後、生きていかなきゃならないの」と話を始めました。その後はずっと「家族のことが本当に大事で大切だから、帰ってきて欲しい」「パパも、もう怒っていないしパパはRAROがいなくなって陰で泣いていたんだよ」というような内容を3時間くらい嗚咽混じりに話してくれました。
私は正直この時、嬉しさと疑いで複雑な気持ちでした。
家がおかしいかもしれないと思い始めてから家出をするまでの約半年の間、私は何も伝えてなかったわけではなく、「こういう事が辛い」「こういうのは今後しないで欲しい」「精神的に辛いから近くで話せば嫌でも聴こえるなんて言わないで、理解してちゃんと話を聞いて欲しい」とずっと言ってきていました。それでも家族は「RAROは高校生で思春期だから周りが過剰に言ってる事を鵜呑みにしているだけだ」と取り合ってもらえていなかったのです。
この時私は親の考えていることが分からなくなっていました。
「両親は過保護すぎるところがあるし、機嫌が悪くない時は向き合ってくれたり、一緒に話したり出かけたりするから愛されてないわけではないよね?」という感情と「何も私はしていないのに、どうして暴力を振るわれたり罵声を浴びせられたり、体を売っているのを知っていてお金を取っていくんだろう」という感情で入り乱れていました。
それでも私は家族が大切だったので、泣きながら訴えてくる母親を見て、私のせいでこんなに悩ませて泣かせてしまっているのだなと思い、申し訳なさと「親に愛されていると信じたい」という気持ちで実家に帰る事を決めました。
その日は一旦しょうの自宅へと帰り、しょうに話をして荷物をまとめ、後日実家へと帰りました。
第八章:家出から帰ってきた
家出から帰る際、私がいなくなって両親が泣いていたことを事前に知っていたので、「少しは私が今まで伝えてきた気持ちを理解してくれているといいな」という、淡い期待を抱きながら電車に揺られ帰りつきました。
そこで待っていたのは私の期待をいとも簡単に崩すものでした。
私が帰ってきた当日、父は機嫌が悪かったのです。
私は帰り着いた後、迷惑をかけたことと家出をしたことをひとまず謝りました。
その後に家出をした理由、私がこれまで思っていたこと、自分の体にも支障が出始めていることを話しました。
そこで私が言われたのは「反省して帰ってきたと思ったのに、何を言ってるんだ」「体に支障が出始めているのは甘えだ」と言われ、父親をさらに怒らせてしまいました。
怖かったけれど、ここで萎縮して何も伝えなかったら今までと何も変わるはずがないと思い、私なりに精一杯伝えました。
結局、父は暴力的になり、売り言葉に買い言葉だとは思いますが「お前は奴隷だ!!!!」と言われ、馬乗りされ首を絞めようとしてきて、弟のけいも、まさかの父親に協力する体制となり首を絞めてきたのでした。
母は隣で「やめて!!!!」とずっと泣き叫んでしました。
私はこの時、だいぶ疲れていたのか、悲しさよりも、やっと全てを投げ出せるという安心のようなホッとした感情になっていました。
今となっては家族に殺されかけたという辛い記憶に変わっています。
何時間か言い合いと取っ組み合いをし、気が済んだのか父は自室へと戻り寝ていました。
私は泣きながら、倒された襖や散らかってしまったものを片付け、母が怪我をしていないか、投げ飛ばされた時に頭を打っていないか確認をしてから、私は自分の部屋へと向かい毛布に包まりながら自分の事を責めることしかできませんでした。
第九章:帰宅後
次の日、父は私に普通に話しかけてきて、いつも通り接していました。
私の感情は「昨夜あんな事があったのになんでそんな平気な顔ができるの」というモヤモヤで埋め尽くされていました。
父はいつも暴力的になった次の日、必ず自分がしてしまったことを反省していました。反省した上で普通に接してくるのでした。
私は父が後悔し反省していることも知っていたので、なんとも言えない気持ちを抱えながらも笑って普通に会話をしていました。
それから数日がたって少し落ち着いてきた頃、母親の借金が父親にバレるという事件が起こりました。
督促状がポストに入っていたようで、たまたまそれを父親が見つけ、私の家庭は家出をする前よりも悲惨な状態へとなっていきました。
督促が来ていた分の支払いは父親がこっそり貯金していたお金で全額支払い、他の支払いは父親が残業を規定ギリギリまですることで補って行くようになりました。
残業を多くするようになった父親は、疲れと母親の借金で悩み、機嫌が悪い日がかなり増えていきました。
次第に両親は夫婦喧嘩が多くなっていき、家族全員が「自宅は休まるものではない場所」へと変わっていくのでした。
私は借金が父親にバレた当初、「父親が母親を助けてくれるみたいだから私はもう辛い事をしなくていい」と、安心していました。
ですが、私が期待していたようなことにはならず、父からも金銭を請求されるようになったのです。
父は援交をしていることは知らなかったのですが、バイトをしていることは知っていたので、少ないとは言えないほどの金額を父にも渡すようになりました。
しょうも私を助けようとはしてくれたものの、人の家庭に入り込んで誰かを助け出すのはかなり難しいことでした。
私はここから地獄が続くようになりました。
to be continued
私が人生を終わらせようと思った理由 No.2
目次
introduction
- 内容は重い話が含まれています。なので、記事を読む際は自己責任でお願い致します
- 自己満足で書いているので、どうか温かい目で見て頂けると嬉しいです
self introduction
初めまして、RARO と申します。19歳のこれまでの人生を書き綴っていこうと思います。
この記事が私の中で生きている証になれば良いなと思いブログを始めてみました。
登場人物
自分:RARO
親:父 母
弟:けい
元彼:しょう
彼氏:あきら
⚠️実際の名前ではありません⚠️
第四章:気付きはじめ
しょうと出会ってから少し時間が経ち、9月下旬、紅葉が綺麗な季節になってきていた頃、家族の愚痴を溢すにつれ、しょうから「人の家庭に口出しはしたくないけど、おかしいんじゃない」と言われることが増えるようになりました。
「RAROの家族普通じゃないよ」と言われるようになった事をきっかけに、少しづつ自分の家族は普通とはちょっと違うのではないかと思い始めるようになりました。
ですが、家庭内のDVや金銭の搾取がどの程度からアウトなのかのラインが中々難しくて、辛い苦しいとは思っていても本当に自分の家庭がおかしいか、なんて分からなかったんです。
生まれ育った環境が普通じゃないとは中々自分では気づく事ができないのです。
少しづつ意識し始めるにつれ、自宅に帰ることが私にとって辛いことに変わっていきました。
学校が終わったり、バイトが終わる時間が来るのが怖くなって、お腹を下すようになったり、呼吸の仕方が分からなくなったりするようになり、体に変化が出てくるようになりました。
体の変化といろんな不安感から自宅に帰る時間が徐々に遅くなっていったのですが、帰宅時間が遅くなると両親が機嫌が悪くなる日も増えて、悪循環になるようになりました。
そんな悪循環を続け、毎日その場しのぎの日を重ねること数ヶ月たち、私にとって人生最大の分岐点となった、高校2年生(当時17歳)の1月上旬、冷たい小雨が降っている夜を迎えることになります。
その日は特別父親の機嫌が悪く、私が帰宅したときにはもう父親が暴れた後でした。
リビングやキッチンの物は壊れ、食器が割れた物たちで床が埋まっていました。
私の部屋のものは全て外に投げ出され、教材、寝具、家具、洋服、などありとあらゆる物が雨に濡れ、泥で汚れ、使い物にならないものもありました。
無惨になげすてられた物を見て私の中で、何かが切れ、父親に一言「出ていく」と、母親と弟のけいに「見捨ててごめん、助けられなくてごめん」と涙が溢れそうになるのを堪えながら伝え、家を飛び出しました。
第五章:1回目の家出
真っ先にしょうに連絡をし、すぐに返事がきて「怪我はして無いか?すぐ迎えに行く」と言ってくれ、夜遅くに電車で40分かけて迎えに来てくれました。
その40分間私は、ただただ建物の影に隠れ、しょうが来てくれるのを待っていました。
次第に雨は止み、私は少しづつ冷静になり、涙を堪えて夜の街をひたすらに練り歩いて時間を潰していました。
しょうが迎えに来てくれた後の記憶は少し曖昧だけれど、その時気を紛らわすために聞いていた曲はよく覚えています。
迎えに来てくれた後、私の家から少し離れた駅までタクシーで移動し、電車に乗り換え、電車に揺られながらしょうの自宅へと向かいました。
当時私は17歳で、しょうは成人済みだったのですが「俺は捕まってもいいから助ける」と言って迎えに来てくれたのがすごく嬉しかったのを今でもたまに思い出します。
家出をした当時、私は高校2年生の終わりかけでバイトもしていたのですが、その日を境に高校に行く事をやめ、バイトにも行かなくなってしまいました。
バイトは事情を説明し退職し、高校はありがたいことに、通っていた高校の中で、通信制の科を作ろうと検討していたようで、試しにと「テストを高校三年生まで郵送するから、それで成績を残すことができたら高校三年生への進学と高校卒業を許可する」と言ってくださったので、高校に在学し続けることができました。
結局、私は1ヶ月間の家出の後、家族の元へと帰ることとなります。
第六章:しょうの家にいた1ヶ月間
私は、警察に捜索願いを出されるのではないか、しょうが捕まってしまうのではないかとハラハラしていましたが、後にけいから聞いた話で私が家を飛び出した直後の夜、両親は私を探すどころかタバコを吸ってそのまま次の日仕事だからと普通に寝ていたと知りました。
しょうと過ごした1ヶ月間は楽しくもあり、苦しくもありました。
しょうが仕事に出ている一人の時間、私はフラッシュバックを起こすようになり、寝て起きては家族のことを思い出しパニックになる生活を送っていました。
気晴らしをするために、しょうはよく私を外へ連れ出してくれ、今までの生活で常に考えていた帰る時間も親の機嫌も、考えることなく素直に楽しめる時間でした。
楽しい時間があれば苦しい時間もやってくるもので、楽しい時間だけが続いてくれることはありませんでした。
私は、家族のことを憎んだり恨んだり嫌いになることができなかったのです。
今まで、普通だと思って接してきた家族で、嫌な思い出もあるものの、親が機嫌がいい時はみんなで笑って夜ご飯を食べて、たまに両親とお出かけしたりドライブしたりして過ごしていた時間が私にとっては幸せな記憶で、家族の嫌な部分だけを見る事ができず、私の中では変わらず家族が本当に大切な存在でした。
家出をして、家族の嫌な部分を見る機会が減ると幸せだった家族との記憶を思い出すようになり、次第に「私はみんなを見捨てて、なんてことをしてしまったんだ」と自分を責めるようになりました。
そんなある日、母親から連絡が来ました。
「このままで本当にいいの?ちゃんと話し合いしたいから、一度二人きりで会って話そう」という内容でした。
自分を責めるようになっていた私にとってすごく刺さる連絡で、ラインでやりとりをし、日時と場所を決め、後日母と会うことになりました。